相対比相対視

1970年以後の日本社会で多用され始め、こういう表現を結晶させたのは主として文学者でしたが、創作の構想、技法上の間題領域を超え、広く日本社会全域の底辺から湧き上る危機感が盛り込まれていました。現代哲学の課題としても、決して軽視できない面を持っており、。相対化は、言うまでもなく絶対化への対抗を意識した言葉です。
日本社会全般に危険な絶対化の恵想傾向が再現しつつあると考える以外にはな く、日本人は、熱心な近代化営為にもかかわらず、前近代的な絶対化信仰を捨て切れず、それが民族を幾度か危機に追い込んできました。生産資源の絶対的貧困には目を閉ざし、むしろ軍事帝国主義による海外侵略にその捕充を求めることこそ民族の生きる道と絶対化して疑わなかっえのでしたが、敗戦はこの絶対化が虚妄であり許されざる本正でさえあったことを白日の下にさらけ出しました。民族はこの教訓から何を学んだかというと、戦後国民は軍事帝国主義を断念せしめられたその補いを産業優先主義、企業帝国主義に求めました。絶対化する対象は異なっても、絶対化へと偏向する意識構造は殆んど変化していませんでした。世界中からは、エコノミック・アニマルの批判を受け、国内的にも企業優先で締上げられた管理社会休制は、全国民に呼吸の困難を訴えさせていました。よって相対化への希求は、いまや政治、経済、社会組織、イデオロギーの各分野を超え、日本人が正常に生きるための最低限要求としての意義を担い始めたといって過言ではありません。現代哲学の課題として、相対化にアプローチするとすれば、あらゆる領域にわたって、弁証法的な思想態度を要請することになります。弁証法は、現状の積極的理解とともにまたその否定、その必然的没落の理解をも含むことだからでした。全て出来上ってあると見えるものをその過程にかえして提えること、固定化、絶対化されたものを相対化することだからで、卑届な自己否定と表裏一体性をなす傲慢な自己肥大、経済成長だけを絶対化した日本人を、自然に連れ戻し、ふさわしい評価の中で自己再生産の機能を営むことができるようにさせるためには、既成の社会秩序、既成の経済成果、既成の料学達成の全てをあげて相対化する以外にはない、というのが相対化提唱の底意なのでした。
今や社会全般を覆う危機意識の中で、日本人は、かつて前世代に唱道された歴史主義とは全く本質を異にする新たな歴史的相対主義による絶対的なものの否定を激しく求められているといえます。

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